只今から昭和三十九年十一月八日夜の御理解を頂きます

 耀進、前進この耀進とか前進とかいう言葉がございます。青年の方たちにびっくりした言葉はないのです。その信心がです本当に、前進から前進、そして耀進をとげていかなければならん、だから前進するとか、耀進すると言うことはどういうようなことか
 今日、大川から井上さんという親子で参って見えて、ご祈念の後に非常にお母さんも熱烈ないわばタイプです。娘さんはもうどちらかというなら、非常にひ弱い感じの人ですけど、非常に修行精神が旺盛、大川から歩いてでも参ろう、昨日もお母さん歩いてまいろう。そんなら私も一緒に参ろうというて、久留米まで来たけれど、なにかの用事があってからお参りが出来なかった。そして今朝から久留米から参って見えられて、どうしてもこのその娘さんが言われます。勝子さん、勝子さんが申しますのにもう、お母さんどうかして、椛目の朝のご祈念に一ペンお参りしたいとこういわれる。おばあちゃんの家が久留米ですから、久留米でも泊まらして頂いてお参り、久留米からここまでなら歩いてこれる。もう、三里くらいのことならもう、歩いてお参りさせて頂けるいわば、自信があるですね、女でも通りは多いし、だからとにかくあの私、今日一つ申しましたが、工夫なさい、色々工夫してからお参りしておいで、最近この勝子さんが椛目からお参りして帰ってきてから、たんびに言うことは、とてもお母さん椛目の信心は、あの月のうち何辺度も参ったというようなことであの分かる信心ではないよ。これは身体ごと打ち込まなければ分からぬ。信心は分からん。
 私はそれが少しづつ分かることがもうなにか、遠いということが、とにかく、歯がゆい思いがするというてから、私に話すんですよ、というて今日私にお届けされるんですね。お母さんのタイプならなんか、それなんですがけど、私は弱い風をしておってから、心の方だけは、えらいしゃんとしておるねという、話したことですけどね、やはり椛目の信心はネタだお陰を頂くというならいざ知らずだけど、椛目の信心を体得するということになるならばね、やはり身体ごというなら、全身全霊を打ち込まなければ分かりはせんね。その神髄に触れる、交流することが出来れる。椛目の信心とは、ですから私は思うのに「前進とか耀進」とか前進する。前進するということはですね。そういう交流を土台としての前進でなければそれはどこえ進むやら分からない。無茶苦茶に進みゃねここのところが、ピしやっとつながっておる。そして、耀進また耀進、進むからには、必ず平穏無事な進み方ができるはずがない。必ずそこには、次から次の障害がある、だからこそそこに進む以外にはない。前進以外にはないね。それを乗り越えて行くところに、前進の意義があるのです。ところに若い人でなからなければできんという感じが致します。
 先ほど桜井先生がお届けされます、最近さまざまなその先生、布教に当たられる上についてです、さまざまな問題が起きておる、それがここにまでつながっておる。人情からいうなら、私もそれをちょっと感じんことはないのですけど、只今、桜井先生のお届けをさせて頂きましたら「進む」という字を続いて行くも頂くです。進む、進む、進んでいくということ。だから先生に申しました、もう「とにかく進んでいく外なかば」と、私はもう問題にしなさんな、問題を問題にしなさんな。ただ、問題は人が助かることのためならば進んでいきなさい、それは神様の信心と、こういわばピチットおおていきよるならば間違いなか、と私は申しました。ね。もう先生最近はです、先日なんかはもう、朝から晩の十一時ごろまでずっとお参りが続いておりました。もう、実に不思議なことなのです。もう本当に私は、だからお陰で信心の、まあ共励がそのご信者そのお参りするかたと一緒に共励ができますというておられます。
 そういう例えばもうどうにも、こうにも、でけん堰を切ったような働きがです、それをとめようたって止められるもんじゃない。なるほど神様が「進め、進め」とおっしゃるそのことだと私は思う。そこで私は今朝、今朝椛目のご祈念に、進むということは、どんなことだろうかと思わして頂いていたら「進行一致」と頂くです。しかも進行の進が進む行と書いてある。進んでいくということには、必ず行が伴うということです。進んでいくことには、必ず障害があるということ。それを乗り越えることが、修行なのだということ。普通「現状一致」というようなことを申しますね。また、「信行一致」とも申します。信は信心の信です。あれは、けど私はいつも今日申しておりますのは「進行」進むべき行、進んでいくからには、障害がある。乗り越えることが修行、けど根本的にです、根本どころが、ただ信行一致もね、交流してからのものでなかなければいけないということ、神様の撃がりを、ひしひし感じながら、進んでいかなければいけないということ。私はいつも、不思議でたまらん、あんたばかっしは、不思議だなあと、いつも言うんですけど、古賀先生が私が身体が悪いときにです「さすってくれても、撫でてくれても」どうもなか、とうんです、どうして私と貴方と交流せんだろうかと私は思です。そんなことをいうなら、修行生の手が痺れているでしょうが、久冨先生当たりも、じゃない、他の今、よしろうさんも、それを言うでしょうが、私の身体の何かが発散しよるとき、それからもう本当に、その手が痺れること位なかなければうそなのです。どうもなか不思議なたいねと、きょう、私はあのここに座らして頂いておったら手がね、いっしょもうとにかく、今朝からこちらの手が使えのです。こう力が全然ないです。ですから今朝は、パット、二度目に立ちながら私は立って、こう手をついて、立ちますときに、時にこれが力がないものですから、ストット前のタッビジョンに頭をうとおうと、今朝からいたしましてね、そげんこちらに力が無かったです。左の手にですから、なにかしら、ジンジンこうしますから、神様にお願いさせて頂きよりましたら、「親子」と頂きました。どんなことかと思ったら、古賀先生のことを頂きますから、あの古賀先生はおらんですから、御結界につきながらそうですね五分くらいでしたでしょうか、時間にして、それでジンジンするところを、こう揉んでいや、いつものように絞って、貫いました。ところが私が大変楽になったから、お陰でその代わり元気がでよるです。先ほどです先生が言うことに、今日はじめてあの先生の腰をもましよったら、手が痺れましたと、ハハア今日はあんたはお陰を頂いたね。いうならばもう私とあんたの中に、信心の上での親子のなにかが、そのことによって、通った気がするじゃないかと、私は申しました。
 ハハ、私が頂いたものを、だからそんとき、頂くんです、あんときなぜ御結界でしかも、あの揉んでもらったか、親子と頂いた。一つそう言う撃がりというものをですね。やっぱり必要とするということなんです。久冨先生あたりが、長年なるほどお道の信心をなさった。お道の教師の資格を取られたね。今日フクがの教会で十何年、修行をなさったんですけれども、それをなんかこう一掃してですね。椛目風に、椛目流儀にそのお陰を思いこんでしまわれた。お陰を頂くにはこれだという風に感じられた。それが交流するのではないでしょうか。ね。椛目と。
 もうさまざまな、障害を越えてこうは入ってきてもですね、もう問題はじゃないというような気がするんですよね。そういう一つの交流を土台としての進みであり。前進でなからなければならないということね。しかもそれは進行一致でなからなければならないということ。ね。進むということは、その進むことに行を伴わなければならないということ。あれを考え、これを考え、時間がかかるから、お金がかかるからね。だれがどうだろうから、これがこうだろうから、こういうものなんかは、それこそ、一蹴していかなければいけないということ、進むときには、それが私が身体ごと打ち込むということで、じゃなかろうかとこう思うのです。椛目の信心ばかりは、お母さんとてもただ月のうち、何回参ったことのようで分かるもんじゃなか。これは本気でお母さん身体ごと、打ち込まなければ、椛目の信心は分からん。その井上さんが言うて居りますように、やはりその全身全霊を打ち込んでの、前進であり、耀進でなからなければならんと思うのです。おかげ頂きまして(?)